昭和五十年九月十三日 御理解第七節


 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地は流行ることなし。流行ることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせぬでもおかげはやってある。」


 金光教の信心はどう云う信心ですかと、もし聞かれたらこの御理解七節を教えて上げたら合点が行く程しのこれは御理解であります。 第一天地金乃神様と云う神様は、いわゆる昔からある神。急に云うなら流行神ではない。天地悠久の昔から天地を御守護下さる、お守り下さる故に天地は流行ることもなければ終りもないと教えておられます。
 だから金光教の信心は、永久に不滅という様な意味ではないですね。天地が不滅であって、地球人間が住んで居るこの地球と云うのはどうなるか分からない実際はね。無くなるかも知れない。そういう説明もここでつく訳です。
 寒天危地と云った様な御理解を頂いたことがあります。いわゆる地球上に死相が現れておりとまで教えて下さったことがあります。それは最近の地球上に起きておる様々の状態、本当に危期感を感ずるのが現在の状態であります。
 本当は歓天喜地。これは歓びの天、喜びの地と書いての歓天喜地であります。歓びの天ですね。喜地、神も歓び氏子も喜び会えれる世界を創造して行くのが、大体は天地の神様が氏子に対する私共の住んでおる人間にかけられる願いでもあり期待でもおありになるのです。それを何ぞや、神様が寒い思いをなさる程しに地球上が危機に晒されておるんだと云う意味、これが寒天危地。
 ですから、私共人間が、云うなら本気で真の信心をさして貰い、それこそここで云われておる和らぎ賀ぶ、和賀心時代を創ると云う様な信心を、私だけではないもう出来るだけ多くの人に、それこそ生き残る人としてのおかげを頂かれるために一人でも多くの喜びの地、真の信心生活の出来れる人を自分の周囲に造って行かねばならない。いわゆる合楽示現活動と云うものが起こった、いわばゆえんでもあるのです。
 天地は流行ることなし。流行ることなければ終りもなし。確かに天地はそうですけれども、地球は分からないと云う訳です。
 私共住んどる地球はです、もう云うならば死滅して仕舞うかも知れない。無くなって仕舞うかも知れない。そういう、云うならば危機の状態にあるんだと云うのが、現在地球上に住む人間の上にかけられる神様の願いでもある訳です。
 そこで、天地日月の心になること肝要だと教えられておる金光教の信心は、もうここに絞れば良いのです。
 天地日月の心になることが肝要だと云う。人間の全てがです、天地日月の心にならせて頂くことを、様々な難儀、問題の中にです、万古不滅の心を求めての行き方、そういう姿勢を造ればです、地球は安泰、人間は幸、幸福の、云うなら合楽の世界。神様と氏子とが喜び会うて行けれる世界が開けて來るんだと。神様の願いはそこにあるのです。
 だから、自分の心の中に、また自分の家庭の中に合楽を創造して行かねばいけんです。いわゆる拝み会うて行く生活が求められるのです。
 限りない美しい心。神様が限りなくお恵み下さる、無条件におかげを下さる。それが神の心です。だから、私共もまた、そういう限りない美しい心を生み出して行かねばいけません。
 地の心。それはいわゆる大地の心。どう云う様なことがあっても、黙って受けて行こうと云う心。またそれを黙って治めるとか、またはそれを心の根肥しにするとか、または御事柄として受けて行くとか、成行きを大切にするとかと、云う風に説かれるのが地の心であります。
 地の心は黙って受けて行く。受けて受けて受け抜く心。それが地の心です。
 私は合楽程、天地の心を心として、お互いが精進しておるところはないのじゃないかと思う位です。今も申しました様に、あらゆる角度から、地の心を養うて行けと云うのが此処の信心ですね。黙って受けて行けと、また全ての事柄に御の字を付けて行けと、こういう訳ですね。御事柄として受けて行けと、成行きを尊んで行けと、それが、云うなら地の心であります。
 天の心は美わしい心です。与えて与えて止まない心です。
 もう人間はそういう心になったが一番楽なんです。またおかげを受けるんです。そげん馬鹿らしい事ばっかり思わにゃんちゅうことはないです。もうそれこそ、有難い有難いで、成程そういう世界が開けて來ることを神様のねらいとなさっとるわけです。
 日月の心。これは金光教での、いわば信心の真の様に言われる、実意丁寧神信心であります。日月程、私は狂いのない働きを私共に送って下さることはないと思うです。云うならば実意丁寧の限りを尽くさせて、そういう心になることが肝要だと教えてあります。
 人間がこういう考え方をさせて頂くところへです、地球は万万歳と云うことになるのですけれども、云うならば自然を征服するとか、神様があるのないのと云った様な人達が殆どであって、互いの信心、信心には色々ありますが、同時に天地日月の心を心としてと云うのは、そういう行き方を教える信心は、宗教はありません。
 私は或意味では金光教だけだと思います、思う位です。その教えを人間が幸せになって行くための素晴らしい教えを持っている宗教は沢山ありますけども、天地日月の心を心としてと云うのは、まずないです。ここは詳しく話すと時間が要りますけど、そういう意味で金光教の信心させて頂く者が本気で、いわゆる天地日月の心を心として行く。神様の心を心として行くような行き方をして、そういう行き方をすることはこの様な幸せにつながることなんだと云う事をです、世の人にもそれを示して行かねばならないんだと云う心持ちにならいて頂くことが、神様が先に立って働きを表して下さるのが、合楽示現であります。
 神様が不思議な不思議な働きを示し表して下さる。そういう神様の働きと私共の精進が一つになって人間の人力の限りを尽くしたところがです、出来ることにない大きな働きがこの地球上に起こされなければならない。そういう運動が和賀心時代を創る合楽示現活動に参画すると云う様な事にもなるのでございます。
 金光教の信心とはそういう信心だと、いわば御理解七節にはそれこそ、金光教の隅々までをです、示されてあると云う感じであります。最後の信心はせんでもおかげはやってあると云うことはです、どういう例えば、無神論者、神様のお世話にならんと云う人の上にも、やはり神様は守り続けておって下さるのが、金光教で教えて下さっておる神様の、云うなら金光教の神様を説明するなら、こういう神様ですと云うことになる。
 この御理解七節はそういう意味で、ここんところを分からせて頂くと云うだけではなくて、本気で私共自体がです、神様に云うなら寒天危地をせんで済む様なおかげを頂きたいと思います。
 私は今日御神前で、テレビでコマーシャルやってます、アンメルツと云う肩こりの張る薬の宣伝をやってますね。三人の娘さんが肩をこうこうやってます。そして何とかアンメルツ、そしてよこよこと言う何か言いましょうが、私はそれを頂いたんですが、今日の御理解七節が、まあ御理解七節をあらかじめ聞いて頂いて、そのアンメルツじゃないけれども、またよこよこじゃないですけど、を聞いて頂きたいと思います。
 それが肩のこりと云うことですから、これは三井教会の初代が信心の真と云われております。こりをつますな。こりを積むな、身を慎めと云うこと。これが三井教会の信心の真になっております。
 こりを積ませてはならん。自分自身もこりを積んではならん。為には、いよいよ謹んで行けと云うことです。
 ところが、合楽教会がこうして誕生致しました。ところがその合楽教会のために、どの位沢山の人がこりを積んでおるか分からないと云う事実を最近思います。
 そこでまあ、合楽の得体の知れないと云うことはありませんけれども、説明を求められれば一つ一つ言い訳があるのでございます。
 けれども、例えば先日から熊本の熊壮会、熊本の壮年教師の会と云う壮年教師の方達が、自動車二台に分乗して此処に見えられました。そしてこれは私が想像した訳でございますけども、何か合楽は霊様関係の事ばかりをね、霊様のことばかりを言うと云う風に誤解しておられた様ですね。
 もうそりゃ帰りがけでしたけれども、成程此処で修行しました高瀬と云う、これはもう高校時代から、もう非常にあの熱心でした。 熊本から熱心に参りました。そして学院に行きまして、熊本に帰りましてから早速布教を始めたんですけれども、隣接教会がどうしてもそれを判を押さなかった。
 そこで本部の方へ直接控訴して、本部直属の布教所、まだ教会じゃないです。まあだ今が二十四、五でしょうか。
 ところがやっぱり霊能者です。もうそれはそれはもう、ここに参って来とります松村さんなんか、田原坂に行って石油商をやっている訳ですが、あの人も一時一寸参ったことがあるのです。ところが、あんまり金が掛かるのでその運転資金まで供えて仕舞ったので、お供えをさせきると云うことは、素晴らしいことですよね。
 も、霊様を救い助けるために、五万も十万もかけてお参りをせろとこう言うのです。だからね、私はその事について、その高瀬、まあだ教会ではありませんけど、やはり人がどんどん助かっておる。神様は教会にせんでもよかと仰る。それでこじんまりとした教会が出来た。その信心で、それで自分の信心の取り巻きを連れてから、ハワイに旅行したり、遠方に旅行したりそういう事を平気でやってのけるんです。それも自分からではない、神様から色々頂くんでしょうね。だからそういうものも中には、私の弟子の中にもそういうのもおりますけれど、そういう事は金光様の信心じゃないと決めつけることはいけない。
 合楽こそ只御理解一本で行っておるけれども、私の弟子の中にそういう霊様専門に拝むのもあるし、また大変御比礼を頂いておる教会で指圧の様なことでどんどん助かって沢山の信者が助かっておると云う教会もあれば、ああ云うのは金光教的でないと云った様な、金光教的でないと云う様なことはいけませんと云う話をしたんです。 金光教の中にはそういう、云うならば金光教の御名を唱えて、そこに五人でも十人でも、もしそこに助かるとするならばです、それは立派な金光教の教えだと認めるべきだと、また金光教の御信心の中にはそういうものもあるんだと教祖様の、教祖様自身とてもです、やはり一番初めには霊様関係のことを盛んに言っておられたこともあったと云う事なんです。
 と、云う様な話をしたもんですから、あらここは霊様関係の事は言わんそうなと意外に思われたらしいのです。
 帰りがけに送って行きよったら、霊様の霊祭のあれが張ってあるでしょう。(掲示板に掲示したことを示す)だから、此処は本当に霊様のお祭りと云うのは、春、秋しかせんとですかと言われるのです。いつももう霊様のお祭りをしよる様に、まあ勘違いをしておられる。
 また質問はされなかった。私が先手を打って話をしたもんですから、私の弟子の中にもそういうのがおるて、けれどもそれを金光教でないと云う事ではいけないと云う話をしておったんですけれどね、もうとにかく底がない程に金光様の御信心は広い大きなものにして行かなければいけない。そして第一に尋問されたことは、合楽示現活動とはどういう事かと云う質問でございました。難しいんです。これを分かる様に説くためには。 
 昨日は美登里会の研修日でしたから、皆さんにお話した後に、皆さん合楽示現活動とはどうい活動か、どういう運動なのかと人から質問を受けたときに、どう説明をするか。これはめいめいの信心で説かなければなりませんから、とにかく合楽示現活動と云うのは、必ずしも上に合楽と云う言葉を使わないなら使わなくても良いのです。云うなら示現活動でも良いのですけれども、合楽と云う言葉を使わなければです、後の示現活動が何のために示現活動がされるかと云うことが分からないのです。
 おかげを頂いた。そのおかげをです、人にも伝えて行くと云う事はです、云うならば神様も助かって下さる、氏子も助かる。神様と氏子が仲良うする信心がです、神も助かり氏子も立ち行く世界を顕現して行く、表して行くと云う事以外に合楽と云う言葉はないのです。
 随分苦労したけれども、だから合楽と云う言葉が障るならです、何かよか言葉を探して下さい、と、云うてもないのです。あいよかけよ示現活動ではおかしい。どうもいけませんし、神も助かり氏子も立ち行く示現活動参画。これでも内容はそうなんだけれども、合楽と云う言葉が一番適切になる。だから、これは合楽教会と云う意味じゃなくて、合楽という字の持つ意味をつけてあるのです。
 そして神様と氏子が共に助かり会うて行く運動です。そのためには私共が先ず良いお導きを頂かなければならない。そして有難い勿体ないものを頂かなければならない。そして信心の歓びと云うものをここに頂かなければならない。しかも、常にそれを持ち続けなければならない。その歓びを人に伝えて行くと云うのが合楽です。
 と、云うて此頃の先生方に塗板に書いてね、善導寺、云うなら勿体島、椛目、常持、合楽と云う、こういうまあこじつけると云えばそれ迄ですけれども、そういう御理解を頂いたんですけれども、そういう内容と云うものを先ず自分が身に付けなければ示現活動と云うものはなかなか出来るもんじゃないと云う、云うならば神様が一番喜んで下さる、まあ神様の願いでもある。そこでなら十三日会。 合楽には色々皆さんが疑問に思うておることが沢山あると云うのです。合楽の研修で一番沢山網羅したのが十三日会。
 熊本の或先生が見えた時に、先生十三日会てんなんてん言わずに十三日会(とみの会)とか何とか言うなら良いですよと、とみの会とは意味をなさんです。やはり十三日会でなければいけないんだと云う意味のね、事です。十三日会。十三日と云うのは私共が、昔本部へ毎月月参りの、月参りをしておった。小倉で下車して、いわば小倉教会に参拝をする。そしてその足で本部へ参拝すると云うつが、その毎月の恒例の様になっとりました。
 ところが、そういう事が他の教会に非常に、云うならばこりを積ませると云う事になったんです。だからこれはもう親先生から大変お叱りを頂きまして、それから、そんなら御本部参拝も小倉行きも止めましょう。参るなら親教会と一緒じゃなければ参られんと云うような時代がございました。 
 十三日を期してお参りをしておった方達がです、その一日をそんなら御本部参拝させて頂いとると思うて、信心の研修をしたり、教会内外のお掃除をさせて頂いたらどうだろうかと云うのが十三日会の始まり。その事を神様に私がお届けをさせて頂きましたら、御神願成就と云うことを、神の願いが成就する日と頂きました。
 だから、十三日会とはどういう日かと云うと神様の願いが成就することの為の日柄なんです。合楽では、勿論十三日と云うのは小倉の先代がおかくれになった日でもありました。
 だから、十三日の日に小倉にお参りしてそのまま御本部にお参りをする。だから十三日でなければいけないのです。十三日会と言わなければいけない訳です。
 しかもその十三日会を始めよう、当時往復の旅費も全部お供え致しました。
 当時合楽ではお初穂の全部が親教会のお供えでしたから、預金と云うものは一銭もありませんでした。そこで十三日会が始まった時に、信者さん達が話し合って、そしてその一日を御本部参拝させて貰うと思うて御用させて貰い、旅費はそのまま何かの積み立てにさして貰おうじゃないかと云う話が出て、十三日会で積み立てが段々なされる様になって、丁度私共が合楽に移らなければならないことが余儀なくされた時にです、その金が七百万円貯っておった。
 その七百万円でこの土地を購入することになったんです。成程神願成就、この様にしてまあ神願が成就して、神の願いが成就する日として十三日は合楽では尊んでおるんだ、大事にしておるんだと云うことを、合楽に神縁を頂いている人達は、それを話が出来る位におかげを頂かねばならない。
 なら、合楽示現活動はどういう事なのかと云うことを説明し得なければいけない。これがね、私はヨコヨコと云うことだと思うんです。アンメルツと云うのが、こりが出来た時に張らせて頂くように、その合楽の云うならば、一つの御比礼と云うものの中に不可解なものがある訳です。 此頃は金光教の中にも迷信打破の宗教と云われるにも拘らず、その金光教の中に、迷信が出来、迷信を云うようになったと云った様なことを私が申しますと、それは必ず質問の対照になります。どう云う訳で金光教が非常識なことを言いよるか、けれどもね、道とか手続きとか、を、尊ばせて頂くと云うことは有難いのだけれども、それで縛って仕舞う様な行き方が生まれて来たこと。そして言葉に表して云うと、道を間違えよるとおかげを落とすとか、こういう迷信が金光教の中にはびこってきたと云うことと、これは金光教の云うなれば、生まれて初めて出来た迷信です。その証拠には〇〇教会におった人達がここで御信心を頂いて、それこそおかげを頂いている事実がこれ程沢山あるではないか。おかげ落とすどころじゃない、信心を分からせて貰う、すぐおかげを頂く。
 私がこの事についておかげを頂いたのは、流れ来たったもの、流れ来たったものは流れ去らせると頂きました。
 例えば、ここに弟子が居ると致します。その弟子が流れ着いた、ここに。そして弟子離れをして出て行く時には、お前達は道を忘れちゃならんぞ、親の目だん忘れちゃならんぞ、云うことはならんぞと云うことです。
 もう流れ来たったものを受けて教えて、流れ去らさなばならない。それでも止むに止まれん合楽があって私があるんだと自分が自発的に合楽に求めて來る者、此処に寄って來る、これは良いことなんです。素晴らしいことです。
 けれどもね、合楽を忘れよると道を間違えておるぞ、おかげを落とすぞと云った事は迷信だと云うことを私が説明すると、皆は合点が行くんです。
 金光教は迷信打破の宗教と云われる金光教なのにまだいくらもあります。金光教内に生まれた迷信と云いますか。合楽ではどう云う訳、お結界が左にあるのか、これも必ず聞かれる。それは私がまだ信者時代に、云うならお取次の真似事をさせて頂いた。三代金光様にその事をお取次を頂いた。それに衡立て机のお供えが来たのです。それまでは私は応接台の上に座って皆の方を向いて私はお話をしよったのです、共励会か何かの時に。
 ところがこれがお供えがあった時に御本部参拝の時に金光様にお伺いしたら、右と左にされたら結構ですとお言葉を頂いた。だいたい右ですけど、左にされたら結構ですと云われる。それで左にお結界を作らせて頂いてそしておかげを受ける様になった。それが深い御神慮のあることは私は左の耳が全然聞こえないです。
 これは神様専門の耳なんです、左の耳は。ですから、私が右の方に座ると皆さんのお届けが聞こえんのです。
 だからそういう事も含まれとっただろうと思われます。左にあるのはそういう訳なんですよ。
 なら、右にあるのはなにか、それはこちらへ参りましてから三百五十名のお届けがある様になったら、右にも作れと云うお知らせを頂いて、七年位前だったですか、お届帳に三百五十名を越えるようになったから、右にもお結界をするようになった。
 今ここが朝とか、月次祭の時には御結界が三つ出来る様なもんです。三人でお届帳三冊あって三冊でお届けをする。今はそれだけではありません。今は毎日千名近くのお届けがあります。お月次祭ともなると千何百名のお届けがございます。そういう訳で両方にお結界があるんだ。左にあったのは、こう云う訳だと皆さんが知っておかなければ横につながって行くときにヨコヨコにならないのです。
 合楽にお参りしよって左にある訳を知らんではいかんわけです。
 合楽では御神米を下げられんのは、それは私が信者時代、御神米の折り直しも知らなかった。あの頃御本部に参拝さして貰うた折りに金光様が何百体と云う下げられた御神米を三代金光様の折りに、だからそれを必要に応じて皆さんに下げられておったのが今に続いておるんだけれども、、これは私が信者時代に御神米をお参りするたんびんに、私共ではタンスにいっぱい貯っとりました。ひきだしに何十年のやはり信心ですから、どうしようもない。本当に御神米で命が助かるとか、御神紙によって云うならば傷が癒えるといった様な霊験あらたかな御神米でありましてもです、あれが沢山あると粗末になる。粗末になると段々おかげが頂けなくなって來る。
 だからここでは私が沢山御神米が下がった時には余り人が喜ばないです。ここでは、あらこれは御神米が十体も下がったが、これは何かやはりそれを使わんならん様な事が起きて來るです。
 ですからここでは、必要に応じて下げて頂く方が尊いものに感ずる。その尊く思う、有難く思うその心がおかげを呼ぶのです。だからここでは、御神米下げないのはそういお粗末御無礼にならない様に、大体云うなら他所の教会でも、御本部でもそうなさるのが本当じゃなかろうかと思うのであります。
 けど、これは合楽独特のものではありおますけれども、そういうことでもやっぱし、ヨコヨコであります、ね。まだそう云うて参りますと色々あります。これはもう合楽独特のものを、だから質問に応じて応えられると云う、云うならば、そういう事でコリを積んでいる人がある。コリを積んではならない。積ませてはならないのに、コリをつんでる人があるから、そのコリを解きほどくだけの信心を各自が頂いておかねばいけないと云うことであります。
 今日は大体御理解七節を大体予め聞いて頂いて、これが金光教の信心はそういう信心だ。こういう神様だ。そして教えはこういう天地日月の心を心として精進して行きさえすれば金光教の信心であり、おかげが受けられるんだ。徳が受けられるんだと云うことを、この御理解七節に説いてある様に、そんならば合楽教会とはと皆さんが尋ねられた時に、私が皆さんに申しました様なことが、それこそ淀みなく、それは合楽ではこう云う訳なんだと云う事の説明がお出来にならなければいけないと云うことについて今日は聞いて頂いたんです。
 金光教とは御理解七節、なら合楽教会とはと、皆さん聞かれたら他所と違うところはこう云うところだと、それを何故かと云われたときには、こういう理由があるつです、こういう訳があるのですと説明が出来る様なおかげもおかげも皆さんが頂いておられなければいけないと云うことを、今日はお話しましたね。  どうぞ。